昭和43年08月01日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けらぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
教組様のどこがようて、天地乃親神様がそれこそ、ぞっこんというところまで、惚れこみなさっただろうか。器量がよかったわけでもなからなければ、特別の技術を持っておられたでもない。ただ平凡な、一お百姓さんであったにすぎない教組様に、此方金光大神あって神は、世に出たとまで言うておられ、天地金乃神と同根なりとまで、教組をたたえておられます。
そういう教組様と、天地乃親神様とのなかに、綿綿たるものとでも申しましょうかね、そういうものが流れ伝わったと。そしてここに、金光教の信心が開かれることになった。これは教組様が開こうというて、開かれたのではなくて、天地乃親神様の願いがあってのことでございますけれども、そこに願いを聞き、天地乃親神様の、その願いを願いとして受けて立たれた。ね、死んだと思うて欲を放し、ね。
家内も後家になったと思うてと、言うならば働き盛りの御年輩である、しかも百姓をなさっておられる、その中心である教組様がそういう家業も、すべてのものをなくしてしまってでも、神様の思し召し御神意に添おうとなされた。そこからですね、そこから無学でも人が助かるという道が開けてきた。そこから特別なことがあるわけでもなからなければ、そこから神様の御心が伝わって行き、神様の御心を難儀な氏子に伝えて下され、そこから難儀な氏子が助かるようになってきた。
お互い段々信心をさせて頂いておりますと、やはり様々な難関というかね、節に出会ういます。これは私の二十何年前頃の私の机の横に書いて張ってありました。いわゆる座右銘です、ね、節を元気な心で受けていく人は伸びる、そう書いてございました。またほんとにそれが私の信条でした。節を元気な心で受けていく人は伸びる、ね、その節にへこたれたらもうそこから挫折するのだ。
それを元気な心で受けていく人は必ず伸びる。そういう私の信念。今日は九十九節というところを御理解に頂いたんですね。今も読まして頂いたようなところですけれども、今日はその九十九節というところを一緒に分かって頂きたいとおもいます。この九十九節というところを通らなければね、百節というところになられんのだ。この九十九というものを通り越すわけにはいかん。飛び越えていくわけにはいかん。
九十八からね、九十八、百ちゅうわけにはいかん。九十九、ね、九十八、九十九、そして百なんだ。ね、そして百節の めでためでたの若松さまよ 枝も栄える葉も茂ると言うではないかというめでたいおかげにゴールインしていくわけなんですよね。ですからどうでもこの九十九節というところは通らなければならない。九十九というのは苦に苦が重なる時、ね、苦に苦が重なる、いわば踏んだり蹴ったり、ね。
泣き面に蜂と例えばいうような時であってもです、ね、また後戻りして九十八やら九十七下にさがってしもうたんじゃ、いつまでたっても百のめでたいおかげになってこないのですよ。ときにはけれども安いんですけれどもですね、ほんとに苦に苦が重なる時には、もうやはりへとへとするようにあるんですけれどね。けれどもやはりそこをね、元気な心で受けぬかなければ、百のおかげにはならないと。
教組様がね、無学でも人が助かると、ね。または天地乃親神様が、も、此方金光大神あってと言われるほどにです、ね、教組様にそのぞっこん打ち込まれたと言うそのもとというのがどこにあったか。昨夜私は休ませて頂いたのは十二時ちょっとすぎだった。そいでうとうとしておりましたら、ま、私の心の上に響いてくるもの、それはあの地唄ともいや、長唄でもありますね。
・・・・が歌って大変人気の出た歌ですけれども、黒髪という歌がある。これはもう非常にこの縁起の悪い歌とも言われております。もう昔芸子さんたちが心中やらするときにあのこれを歌って死んだというくらいにですね、いわゆる心中歌とも言われる。もうちりめんものというても猟奇綿綿たるその代表的な歌なんですね。この黒髪というその歌には私には非常にその不思議なね、ま、不思議というか怪談めいたその話があるんです。て言うのは私が家内と結婚いたしましたもう当初のころでした。
ちょうど夏今の頃。私ども暑い盛りに結婚しましたが、ま、結婚いたしましてすぐの頃、私がこの黒髪というそのきんやさきち?さん歌うところのレコードを買ってきたんです。そいで二人で外に椅子やテーブルを出しましてね、もう日が暮れかかる頃でした。さっそくその聞いてみろうじゃないかというので、家内も好き、私も好きですから、ま、それを、ま、聞いて楽しもうというわけなんです。
ところが不思議なことがあるんですね。レコードをこうかけましたら、スーッと言うだけでですね、全然歌になって出てこないんですよ。どうしたことじゃろうか、何回やっても何回やってもすうっという音が出るだけなんです。その蓄音器のほうに故障があるんだろうというて他のをかけてみたところがほかのはみんな鳴るんです。ところがね買うてきたばかりのその黒髪というそれだけが、どうしてもならんのです。
少し気持ちが悪くなりましてね、その黒髪ということのいろんなことを知っていますから私は。今でも家内とそのことを話しますことがありますがね、その鳴らないんです。とうとう鳴らないからもうそのあとのあれを聞くのもやめてからこそこそにそのレコードを聴くのをやめたことがございましたがね。そのいわばそういう一つの因縁話めいた話のある、休んでうとうとしよりましたら黒髪がどこからか流れてくるように私たち、所謂神耳でしょうね。
夢の中ですから、響いてくるんですよ。黒髪の薄ぼれたる思い・に始まって、しんと更けたる鐘の声、積もると知らで積る白雪といったような文句で終わっておる歌なんです。私それ目が覚めてからもうあの小さい、小さい電気にしてしまって、したら横を見た所がまだ家内はまだ休んでいない。それから暫くそういうようなことでも、あの昔のことをいろいろ思わせて頂いてから、私は、ははぁ、これが今日の御理解になるんだなぁとこう思うたんです。
そしたら九十九節、ね、これはあの人はなんていうですかね、鹿児島出身の森川進一かなんかて言う若い歌手が、人気歌手がおりますね。声ががら声のような歌手ですね。あの人があの蝶と花か、花と蝶か、ね、どちらかそんな歌を吹き込んでおりますでしょう。ね、花が散る時蝶が死ぬ、かね。そんな二人でありたいと言う様な確か歌詞だったと思う。もうそれこそ情感を込めて歌っておりますね。
花が散る時蝶が死ぬ、蝶が死ぬときには、もう花ももちろん散るというそういう恋をしたい。そういう二人でありたい。というわけなんです。私はあの教組様と天地乃親神様と言うのは、そういうような、私は感情と言う様なものが、あの流れておられたんじゃなかろうか、というふうに思うんです。ね、いうならばもうその恋愛感情とでもいうか、ね、もう何をいっさいのものを投げ打ってでも、神様のほうは断れない、いやむしろ、それに飛び込んで行っておられる。ね。
結局信心がお好きであった。お小さいときから、信心が好きであったということ、ね。それが例えばですね、九十九節ではないですけれども、どういう節にあわれましても、ただひたすらにそこをお詫びしぬかれた。これほど信心するのにと言った様なものではなくて、そこを平身低頭、どこにお粗末御無礼があるやら分からないというような姿勢をもって神様へ進んで行かれた。それが私どもだったらどうでしょうか。ね。
九十九節と言う様にもう次から次と、節から節が起きてきたらです、もうへこたれてしまう。ね、信心もいい加減なもんだと、言う事様な事になってくるんじゃなかろうかとこう思うのですけれども。そういうたとえば九十九節、苦から苦が重なると言う様な場合でもですね、そこを抜け切れるということはね、とても信心が好きじゃなからなきゃ出来るこっちゃない。
普通じゃできられない、ね。初めにはさほどにも思わなかったけれども、それこそ会うたびごとの親切がもう引くにひかれないようになっていくというように、誰だって信心が始めから好きというものはそうざらにありゃしません。信心てなんとはなしにいいもんだなというぐらいなことはあります。それから信心に入る。ね、いわばおかげを頂くから信心さして頂いておったというところからですね。
けどもそう言う様な事でやはりあの一生終わって、いわばいうならま、腐れ縁的なものでですかね、信心もやめ切らん、おかげも頂き切らんと言った様な私は人もたくさんあると思うです。それはいつの場合でも、節をいい加減にするからです。節から節の間は、なんとはなしに、金光様金光様といいよるけれども、いよいよ節というようなときには、もう金光様といいよらん。
そこをいい加減にする、誤魔化す、そしてただそこんところを、なんとはなしに通って行くだけなんだ、ね。節を元気な心で抜けていくというところがない。私はその黒髪という、その文句の黒髪の結ぼれたるというところ、私はやはり、信心の修行というふうに思うた。信心の、例えばその修行がですね、神様といよいよ結ぼれて行くのですよ。修業を抜きにしてですね、神様と結ぼれていくことはないです。
おかげだけで、結ぼれていったんだったら、絶対ほどけんです。なぜって、そんなに調子のよいことばっかりないからです、ね、信心の修行信心の苦労によって、結ばれて行くところの信心であって、始めておかげが受けられる。祈りも果てて時雨する音を聞きつつ 明日の日を思う、という。もうとにかく皆さんが帰られて、ね、御祈念を終わって帰られる。そして御神前に出て、御祈念をしておると、もういつ果てるとも分からんほどに、もう別に願うこともなからなければ、頼むこともない。
じっと神様の前に、もうなにものも侵されない。なにものにも、邪魔されることのない、私と神様の中にです、もういつはつるとも分からないほどの祈りが、御神前で交わされる。そういうような、私はあのひとつの情感というかね、神様との間のもの、というものは、信心が好きじゃなからなければね、できるこっちゃない。もうはよう休もう休もう、ポンポンと柏手打ってから、すぐ休むということになる。
ご祈念をしておるということが、拝んでおるということがです、もうとにかくもう言葉には表現できない。それこそそれを、ま流行歌んでもたとえるならばです、もうこのまま死んでもよいというような気なんです。本当ですよ。あの私がそういう私が境地に浸っておるときに、今神様が引き取るぞと仰るなら、もそのままも、それこそ喜んでそのまま御国替のおかげも頂けれると言う様な感じなんです。
花が散る時、蝶が死ぬ、そういう二人でありたい。いわゆる恋愛の極致とでも申しましょうか。神様と私どもの中もそう言う様な私はですね、その情感が流れあうところの信心、それには信心が好きにならなければいけません。好きにならなければです、その人のために自分を犠牲にすることはできません。好きな人のためならば、何を犠牲にしても惜しくない。そこでどういうことになりますか。
私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの、という結果になってくる。親のものは子のもの、子のものは親のもの。それ親んもんな子のもんだけじゃいかん。子のものもやはり親のもの。そこに初めてです、親神様の持っておられる全てのものが自分のものとして頂ける。私どもはどうでもですね、たとえば節から節と言う様な時に、苦に苦が重なるというようなところをひとつ本気で信心で抜けきらないとですね。
いわゆるめでためでたの、というとこのおかげになっていかない。九十九を抜きにして百にはなれない。そうそこを抜けきるいわば道はですね、本当にそのことがやはり有難いというか、好きにれなきゃだめ。愈々ん所は。もうおかげと言った様なものは問題じゃないのだ。昨夜ある方がご心眼に頂いたお届けがあった。果物屋さんでスイカを求める。一番大きいのを下さい。大きなここにスイカがあるこのスイカを下さい。
ところがその果物屋さんでそのスイカを下さいと言うのに、小さいこのくらいかぼちゃぐらいのそのスイカを渡された。いいや私はそっちの大きなスイカがええ、と言うたけれどもその小さなスイカを渡されたというようなお知らせを頂いた、というのである。本気で修行しょうということになるとね、水火の行というような、ま、それこそ水火、火や水の行にも匹敵したような私は行という意味だろうとこう思うのです。
こちらがね、その本気で修行させて頂こうという気になったらね、もうそれはね、もうそれこそ普通で出けそうにもないことがね、平気でけきるもんですよ。そのはまりがないからしるしいのですよ。はまったらもうそれこそ小さいかぼちゃぐらいなもんですよ。ほんとにこげな修行ばいつまでせなんじゃろうかと思うから、いつまでたっても苦しいんですよ。こちらから本気でですね、もう本気で、そのこちらから大きな方を下さいという気になったらね、もうそういう修行はあるもんじゃないです。
けども、ほんなしかたもない修業をしよってから、その仕方もない修行ですら、はぁいつまで続いたら、いつまで経ったらおかげ頂くじゃろうか、こげな苦労ば、いつまでせんならんじゃろうかといったようなね、そんなけちな考えではね、いつまで経ってもおそらくそうした意味でも、一生が修行と仰る意味ではない、つまらん修行が、いつまででも続くだろうとこう思うのです。
尊い修行になっていかない。ですからそういう、例えばはまりが必要だけども、そのはまるということにもです、私は信心が好きにならなければはまられんと思う。 九十七節のね、神を拝むものは拍手して、神前に向かうてからは、たとえ槍先でつかれても後ろへふりむくことはならんぞ。もの音やもの声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。なにものにも侵されない、誰が何というても迷わない。ね。
人のもの音なんか、人が例えば、あの人はちっとぼうけとらんじゃろうか、といったようなことなんか、もう全然問題にしない。人が噂するから、人がどういうから、ね、そういうことでは、私は本当の恋は成就しないと思うです。まして神様との上に私どもがですね、いわゆるめでためでた、というようなおかげを頂かしてもらうためには、やはりこの、九十九節を通り抜かなければならん。
どうして例えば無学で、ね、まいうならば人間的にいえば、どこに取り柄のあろうとは思われない、教組様にです、天地乃親神様がぞっこんほれ込みなさったか。ね、そしてまさかのときには天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれと言えば助けてやると、仰るほどに天地乃神とが同根だと、もう一緒だとまで、仰っておられるというようなですね、信心がどこから生まれたかと。
教組のもちろん実意丁寧を貫かれたその信心であるということと同時に、信心が私はお好きであったというところであると思うんです。だからどういう例えば九十九節、いわゆる苦に苦が重なるような節でもです、ね、そこを通りぬかれたおかげにそこに百節があったとこう思うんです。ね、それにはどうしてもひとつ皆さん、やはり信心が好きになるなんとか工夫をしなければいけません。
朝参ってからまた夜参るの、ね、参らにゃならんのじゃない、参らにゃおられんのである。もう私の心が、ね、それこそ神様がこうやって手招きしござるごとあるようなですね、ものを感じられるように段々なっていかなければ、ほんとの修行はできんのじゃなかろうか。誰でも苦労はよけたい、避けたい。ね、そこんところをこちらからですね、いや大きい方をくださいと言うような私は気持は生まれてこない。
いつ積もったか解らない様に、積もっていく例えば雪景色とでも申しましょうかね、積もる白雪であります様にですん、私共の信心がいつここまで育ったか分からない位にです、有難い方へ有難い方へと育っていっておるということがですね、一つ一つの節を有難く受けぬいていくと言う所にです、信心が育っていくのですよ。何十年信心しとるけれども、どうしてこの様な信心が、自分の心の中に頂いておるものがです。
育ったのであろうかと、自分で思えれる様な人が例えばないならですね、ただあなたは何十年信心をしておるといういだけ。いうならば神様との間の腐れ縁、ね、切るに切られない、ね、といったようなですね、そういう腐れ縁的なことで神様とのご神縁がつながっておるだけじゃつまらん。ね、引くにひかれん、切るに切られん、いや、ね、人が何というてもそこんところが頂けていけれる信心。
自分の信心の過去というものを振り返ってみて様々な、いわば節があったあん時に神様一筋にお縋りして、あすこを頂く抜かせたというもの。ほんにあん時にあげな節があったが、あん時な信心がぐらぐらしたばってん、誰々さんに頼んでこげんなったち言った様な過去であったんでは、ね、その積もる白雪と言う事にはなって来ない。ね、所謂信心の成長なんかは何十年信心しとるから信心が成長しとると言う事はないですよ。
五十年たったて、信心な全然成長してない人があるんです。ね、それは節のたんびんに迷うとるです、節のたんびんにおれとるです。だからおんなしところを堂々周りをしとるです。節のたんびんにおかげを頂いておる、節のたんびんに信心が成長しておる。そういう信心経歴というものを持っておるなら、信心がもちろん進んで行こうが、おかげも当然それに伴うて頂いていかなければならんはず。
ね、それにはどうしてもひとつ、その節を元気な心でというよりもね、もうやはり有難い心で、楽しゅうそれを切りぬけていけれる、受けていけれるといったようなおかげを頂くためにです、信心が好きにならなければいけません。ね、そして神様の願いでありますところの九十九節を乗り越え得たものの上にだけ下さる。めでためでたのというようなおかげ頂きたいもんですね。
どうぞ。